江戸の「秩序」を担った奉行所
蔦重をめぐる人物とキーワード⑭
■勘定奉行、寺社奉行とともに柱となった町奉行
町奉行を務めた人物のなかで、名奉行と謳われたのが大岡忠相(おおおかただすけ)である。大岡は享保年間(1716〜1745)に江戸町奉行を務め、合理的かつ人道的な裁判で知られた。江戸幕府8代将軍・徳川吉宗(よしむね)のもと、町火消(まちびけし)制度の確立や前述した「公事方御定書」の制定などに尽力。なかでも彼の施策の一つである「相対済し令」は、当事者間の話し合いによる紛争解決を推奨し、裁判所の負担軽減に寄与した。
また、「遠山の金さん」として庶民からも親しまれた、幕末の町奉行である遠山景元(とおやまかげもと)は、弱者救済の政策に優れた手腕を発揮したとされる。
なお、勘定奉行は幕府の財政と直轄地の管理、寺社奉行は全国の寺院・神社の管理監督が主な業務で、これら三奉行が幕府の統治体制の大きな柱となった。
しかし、開国の交渉や財政難など混乱の続く幕末の動乱期以降、幕府の力は著しく衰退。1868(慶応4)年4月に江戸城が新政府軍に明け渡されると、市中の治安維持は、旧町奉行の石川利政(いしかわとしまさ)ら市中取締に委ねられた。同年5月には江戸鎮台府が設置され、旧幕府の三奉行所は廃止。町奉行所の機能は、市政裁判所へと引き継がれ、江戸の都市行政を長らく担ってきた町奉行所は、その役割を終えたのである。